私は、1部上場企業の本社に23歳から9年間も在籍していたのですが、突然に、勝手な理由で自己都合退職しました。
その時に、人事部長から「希望の職場があれば考慮したい」との最後の言葉に、感謝の気持ちで応答出来なかったことが心残りです。
それまでの長い間には、多くの上司の好意と同僚の協力があって自分の仕事ができたのですが、退職することだけに集中していました。
当時は、名古屋にも職場がありましたので、そこへの配置換えを含んだ言葉でした。
ところが、私は自己の利益を優先した選択はしたくなかったのでした。
ご厚意に対して一方的な返答をしてしまったことに対して、今では反省しています。
勝手な理由とは、その半年ほど前のこと、相模原工場への配転候補者に名前が出たとの情報を得ていました。
当時、妻が東京都職員として保母をしていましたので、困る事になります。
いずれは配転になることは想定内でしたが、私は長男であり、年老いた両親と同居する意向がありました。
この配転話は立ち消えになったのですが、これを機会に、私は地元で暮らすことを考えはじめたのでした。
会社の業績は拡大しつつあり、私の業務も多忙でした。
私は、技術部工務課という花形のポストであり、上司にも恵まれて充実した毎日でした。
仕事の内容についての悩みや不満もありませんでした。
それなのに「脱サラ計画」を実行することが目標になっていました。
現在では、介護保険制度が整い、老人ホームも充実していますが、当時は、在宅介護が慣例でした。
常々長男の重責を感じていたのでした。
もう一つの理由は、一生を同じ会社で働くことは、制約の中でマンネリ化することを恐れていたのでした。
偶々子供がいなかったので、未知の世界に挑戦したかったのです。
労組の本社支部長の時に、自分の職業観は「和洋中華の3食を味わうことを理想とする」と明言したこともありました。
振り返ると、自分勝手な考えで、敢えて苦難の道を選択して、妻を巻き込んでしまったのでした。
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